“いいピアノを弾けるようになりたい”
“音楽専門の通訳者として働きたい”
そんな想いを胸にポーランドへ来ました。
「両方は無理だよ。」
物事を極めることの厳しさを知る人に言われましたが、
自分が自分であるために、ピアノにも、ポーランド語にも、必死に取り組みました。
長らく成果の出ない中、最強の恩師に恵まれる強運だけは私の味方でした。
ポーランドで出会った“歩く奇跡”
日本人で唯一、国立ビドゴシチ音楽院タチアナ・シェバノワ教授クラスで学ぶ
という幸運に恵まれたことの意味を、自らに問い続けてきました。
最後の瞬間まで数々の偉業で周囲を感動に包み込んだ奇跡のピアニスト、
少しでも多くの方にお伝えしていきたいです。
どこにいても同じ、みんな繋がっている
社会人としてのスタートは、ウクライナ国境近くの町でした。
アジア人が一人もいなくて、
ポーランド人も“世界の終わり”と囁く小さな町。
私にとってはここが“世界の始まり”でした。
「世界一の音楽通訳になります!」
本気で言ったのに笑われて、行き場の無い思いをしたことがあります。
でも恥ずかしくはありませんでした。
不器用なので回り道ばかりしてきましたが、
この密かな野望はまだ消えていません。
音楽畑から外交機関へ
ピアノ一色の毎日を送ってきた自分ですが、
ご縁があって ポーランド外務省の直属機関で働かせていただくことに。
活動範囲がぐっと広がり、その後の活動へとつながる大きな一歩となりました。
一方で、12年ぶりの故郷で体験したリエントリーショックと
新境地でのカルチャーショックは想像を遥かに越えるものでした。
「日本は異国じゃない。異星だ!」
世界78ヶ国を取材してきた友人が初めて訪れた日本で発した言葉が、
ポーランド生活で難しさを感じた時、まざまざと記憶に蘇ります。
日本の常識が非常識にも成り得る世界で生き抜く術を、
(何とか)逃げ出さずに学んできました。
「違いのあるところには、痛みと争いが生まれる。
でも、人は違いからしか学べない。」
どんなに痛くても、光が見えなくても、
相手に牙をむくのではなく、扉を閉ざすのでもなく、
時間をかけて、歩み寄る方法を探し続けます。
現在、ポーランドに拠点を置き、演奏・通訳・指導活動に従事しています。
お力になれることがありましたら、どうぞお声がけください。